美しい老衰

(備忘録)

お看取りした患者さんの死について、良いとか、悪いとか、穏やかだとか何だとか評価しないようにしています。

 

しかし、今回は、どうしても美しく見えたので、ついついご家族には「美しい老衰だったと思います」とお伝えしてしまいました。

 

美しい老衰。

時折見せる笑顔、言葉はいずれも天使級で、とにかく美しかった。

おやつを分けてくださるなど配慮がまた美しかった。

「ありがとうね」といつもいたわってくださる言葉もまた美しかった。

そして、その姿が美しかった。

もっとも忘れてはいけないと思ったのは家族の献身さ。とっても美しかった。

 

美しい老衰。

評価しないというマイルールを破ってまでも口にしたいと思った言葉。

 

素晴らしいご縁でした。

 

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何もないという贅沢を、オークから。

「何もないという贅沢を、オークから。」

 

コピーについて全くの素人である、スタッフの菊ちゃんと私の合作。

 

 

私は、八幡平とオークが大好きなのですが、いざその魅力を言語化して大勢の方に伝えようとすると、実に難しいのです。

岩手山、温泉、自然、雪、畑、田、野菜、バジル、森、川、紅葉、人々・・・

 

お店は少なく、交通機関にも乏しい。

何もないといえば何もない。

 

しかし、どうだろう。

粉雪が空からゆっくり、ゆっくり落ちてくる氷点下に冷え切った真冬に、オークの暖炉傍で、美味しい珈琲を飲みながら本を読む。

朝にちょっとだけ早起きして畑に行って、朝露がついたトマトをもいできて、それを朝食に食べる。

朝起きて窓をあけて晴天であることを知り、急遽登山に行くことを決断する。あるいはスキー。

 

物質的には何もないようにみえつつも、どこか心が満たされてゆく日常。

何もないけど、なんでもあるような感触と感覚。

 

と、こんなことをずっと考えていました。

 

いわゆる都会のように何かが派手にあるわけではないけれど、言語化できないのがもどかしいのですが、明らかに何かがあるように思えてなりません。とっても豊かな何かが。

それがオークです。

 

来週末、6月16、17日にオークフィールドの内覧会を開催します。

興味がある方も、あまりない方も、どうぞふらっとお立ち寄りください。

 

何もないという贅沢を、きっとオークで感じられると思います。

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オークフィールド八幡平

6月1日、本日、オークフィールド八幡平の経営譲渡が正式に完了しました。

 

私の新たな挑戦が始まります。

不安がないと言ったら嘘になりますが、不安よりも遥かにワクワク感が勝っています。

 

 

経営譲渡後も、オークはキープコンセプトで進化し続けます。

日本版CCRCとしてのオークを大切にする一方で、これまで以上に地域を大切にします。

八幡平市柏台のオークフィールドとして、地域にしっかりと根づき、この街とともに発展していけるよう最善を尽くしたいと思います。

 

 

どんなに年をとっても、病気や傷がいが仮にあろうとも、私たちはいつまでも私たちです。

私たちが私たちであり続けられために、生涯現役でありつづけること。

私たちが私たちであり続けられために、日々を安心して、楽しく、輝いて、豊かな生活をおくられること。

つまるところ、私が私であり続けられる場、それこそがオークフィールドなのだと私は考えています。

 

集う皆さまが、オークを選んで良かったと心から思っていただけるよう、私は経営と運営に最善を尽くすことをお約束します。

どうぞ、引き続き、オークフィールドをよろしくおねがいします。

 

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「アーベイン・ケア・クリエイティブ」

本日は特別な日だ。

介護や福祉にイノベーションを起こそうと力強く立ち上がった会社、アーベイン・ケア・クリエイティブが静かに幕を下ろす日。

創業者の壮大なロマンは、数年前、次世代の冒険者へと引き継がれた。
引き継がれたロマンは、荒波の中を力強く進んだ。
この偉大な冒険の旅が、本日、その第一幕を下ろす。

しかし旅は終わらない。
創業者から冒険者へ渡ったバトンは、今度は挑戦者へと繋がる。
明日から第二幕の始まりだ。
さあ、がんばろう。

 

みなさん、岩手県八幡平市に存在したアーベイン・ケア・クリエイティブという会社を忘れないでいてください。偉大な会社です。

創業者のロマンと、それを継いだ冒険者に、最大の敬意を表します。

 

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不死鳥、飛び立つ。

(備忘録)

 

不死鳥とは、まさにこういうことだと思っていた方が、ついに旅立った。

旅立ちというより飛び立つという表現がしっくりくる。

 

何度ももうダメだと思った。

その都度、ご家族をお招きし、「最期が近そう」というお話をした。

あざ笑うがごとく、数日後に復活。

 

これをもう数度繰り返した。

直近では、もはや笑い話にすらなっていた。

 

今回も復活するかもと一瞬は頭をよぎったが、前日の当人の振る舞いは、これまでとは明らかに異なっていた。

人は、自分の人生の仕舞い方でも知っているのではないかと思った。

 

不謹慎と思いながら、臨終後ではなく、臨終の前に、不死鳥の大好きだったアイスクリームをみんなで食べた。

これまでの数々の復活劇を振り返りつつ、ちょっと早いけど、「お疲れさまでした」という思いをこめて。

そして物語をココロに刻んで。

 

また寂しくなります。

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遺品、宝物へ。

先日見送った、とっても大好きだった患者さんの遺品を、ご家族から譲っていただいた。

 

ご本人とご家族の次くらいに、この椅子にお世話になったのではないかという自負もある。

ここ数年は、若干建付けが甘くなったのか、少しゆらゆらしていが、それもまたボクは大好きだった。

 

少しだけ修理して、末永く使い続けようと思う。

遺品が、宝物へとなった。

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ビジョンの実現へ。

お知らせです。

 

6月1日より、八幡平市にあるオークフィールド八幡平を経営することになりました。

(3月に創業した「いろいろ株式会社」が運営します)

 

これで、私どもことのはグループのビジョンの実現が大きく近づきます。

 

ちなみに、私どものビジョンは下記。

生まれてから人生の最期の瞬間まで、大好きな場所で、大好きな人と、健康な時も、病気の時も、障がいがある時も、安心して、楽しく、輝ける豊かな人生を送れる社会の実現を目指します。

 

私たちは大きく前進します。

 

 

オークフィールド八幡平についてはこちらもご参照ください。

http://urbane8.jp/

「みんなの食堂」という挑戦

「みんなの食堂」という企画を昨年からやっています。

 

暮らしの保健室もりおか(一社ことのは医療研究所)が運営しています。

 

みんなの食堂のアイディアの源泉は二つです。

 

まず、私のコンセプトの根幹、「人と者、人と人、人と地域、地域と地域などが円などで繋がり、循環してゆくこと」であり、これを具現化するツールとして「多世代交流」や「ミニコミュニティーの創出」があります。

そして、美味しい食べ物があれば、あまり知らない人同士も楽しく語り合えるんじゃないか、という発想です。

食堂というミニコミュニティーで、美味しい食という媒介を通じて、多世代交流を存分にしようというものです。

 

次に、「子ども食堂」などへのアンチテーゼ。

ターゲットを比較的絞った企画やコミュニティーは、むしろ差別の源泉になりやしないかという疑念が常に私にはあります。

だからこそ、多少を絞らない、あくまでフラット感にこだわっています。

 

 

みんなの食堂の仕組みはシンプルです。

一人で来るより、複数世代で来たほうが安くなるというもの。

一人だと参加費千円なのが、二世代二人でくると一人あたり400円と一人きりの半額以下になるというシステムです。

三世代三人だとさらに安くなります。

こんなイメージで、多世代でのご来場を促しています。

 

また、食の質にも当然こだわっています。

こちらは、私が別にかかわる「ことのはきっちん」が全面バックアップ。

 

最後に、同時開催のイベントの質にもこだわっています。

ピアノなどです。

 

運営は赤字もいいところですが、楽しいからいいんです。

私のビジョンの達成のために欠かせない企画でもありますので。

 

 

死は誰のものか。

つい口に出してしまった。

 

見事な老衰です。

 

愛情あふれるご家族の介護を受け、本当に穏やかな表情、そして時折見せる女神のような笑顔・・・。

 

これを総合すれば、「見事」としか表現できなかった。

 

これまでも、たくさんの老衰に出会ってきたが、今回ほどのことは滅多にない。

要素は何だろうと考えてみる。

自宅であること、無理して食べないこと、点滴もしないこと・・・。

いや、それらはあくまで前提条件に過ぎず、やはり家族の愛情に尽きる、本当にそう思う。

(ご家族の献身的な介護を目の当たりにし、涙が出そうになった)

 

死とは誰のものか、と以前投げかけられた質問を思い出した。

質問の主は、「自分(本人)のもの」と答えられ、私は「みんなのもの」と返答した。

私の意見が正しいと強硬に主張するつもりはないが、しかしながら、「自分(本人)のもの」という考えには猛烈な違和感が残った思い出がある。

 

話は戻り、今回のエピソードを垣間見ると、少なからず、「自分のもの」とは思えない。

少なくとも、家族のものではないことだけは確かだろうとは思う。

 

死は誰のものか。

自問自答を続けたい。

 

ちなみに、敬愛する先生が、「死は誰のものでもない。そもそも所有物ではない」と仰った。

現時点で、私はこの解釈を支持しています。

 

ボーロ

(備忘録)

決して大げさではなく、このボーロはいわゆる女神からもらったもの。

一見普通だが、明らかに特別。

心して食べたい。

 

さて、食べられなくなったらどうするか、のような倫理的難題を考えるとき、本人の意思というのが、とにかく重要である。

しかしながら、欧米ほどの個人主義ではない日本では、ちょっと難しい局面が少なくないと感じている。

とりわけ、家族の愛情(思い)をどう反映させるか、というもの。

その家族の愛情は、ときに本人の意思に反するかもしれない。

もちろん、本人の意に反し、家族の意見を最優先するわけにはいかない。

とはいっても、家族の愛情を、本人の意に沿わないからといって一刀両断することもできない。

 

さてさて、どうしたものか。

もちろん答えはない。

答えがないからこそ、本人を真ん中に、みんなでひたすら語り合うほかない。

 

もしくは、このボーロを食べると答えが見つかるかもしれない。。。